「涙の本能寺」という曲を聴いて、途中から涙が出てきた、という方は多いと思います。私もそうでした。
ファーストテイク風に作られたAIの動画なのに、なぜここまで泣けるのか。そこが不思議で、調べ始めました。
先に、この記事の答えを書いておきます。
この曲が泣けるのは、聴く人が信長という人をどう思っているかで、涙の出る場所が変わるからだと思っています。信長が光秀を嫌っていたと思って聴くのと、期待していたと思って聴くのとでは、同じ曲がまったく別の歌になります。
この記事で分かること
・この動画がどういう形で作られているか
・光秀が謀反を起こした理由について、今どんな説があるのか
・信長の厳しさを「嫌い」と読むか「期待」と読むかで何が変わるか
・史実にだけ残っていないものは何か
なお
歌詞そのものはこの記事に載せていません。動画を貼ってありますので、聴きながら読んでいただくのがいちばん早いと思います。
この曲は「織田信長 feat. 明智光秀」という形で作られている
まず、この動画の形を確認します。タイトルは
「【FIRST TAKE】涙の本能寺|織田信長 feat. 明智光秀」。投稿しているのはリングマスター Ringmasterというチャンネルで、公開は2026年7月6日、再生は
139万回を超えています。
ここで手が止まったのが、
feat.(フィーチャリング)という書き方です。音楽でいうfeat.は、主役の曲にもう一人が客演として加わる形を指します。つまりこの曲は、
討った側と討たれた側が、同じ1曲の中に並んで立っているという作りになっています。
動画のページには、YouTubeの「AI生成」の表示が出ています。また概要欄には、オマージュとパロディを含む完全オリジナルのフィクションであり、実在の団体・番組・人物・版権元とは一切関係がないと明記されています。
殺した人と殺された人が、恨みをぶつけ合うのではなく、
並んで歌う。この設定だけで、もう普通の歴史ものではありません。
光秀が謀反を起こした理由には、今もいくつもの説がある
ここが今回いちばん大事なところです。
本能寺の変がなぜ起きたのかは、今も決着していません。
事実として分かっているのは、国立公文書館の解説にもあるとおり、
天正10年(1582年)6月2日、京都の本能寺で、織田信長が明智光秀によって討たれたということです。そのとき徳川家康は堺にいて報せを受け、伊賀を越えて6月4日に岡崎城へ帰り着いています。
ところが
「なぜ光秀が裏切ったのか」については、研究者のあいだでも意見が分かれたままです。実際に国立国会図書館に所蔵されている研究を並べると、こうなります。
| どんな見方か | 実際にある研究 |
| 織田家の中の派閥の力関係から見る | 藤田達生『明智光秀伝 本能寺の変に至る派閥力学』 |
| 光秀が任されていた領地の支配から見る | 福島克彦『明智光秀と近江・丹波 分国支配から「本能寺の変」へ』 |
| 四国の政策転換で光秀の立場が崩れたと見る | 浅利尚民・内池英樹『石谷家文書 将軍側近のみた戦国乱世』/柴裕之「明智光秀 四国攻め外された焦りが”本能寺”へ」/桐野作人「四国問題と斎藤利三の動向」 |
| その四国説を検証し直すもの | 中脇聖「長宗我部氏から見た本能寺の変 近年取り沙汰される「四国問題」起因説を検証する」 |
注目してほしいのは
いちばん下の行です。四国が原因だという説がある一方で、
その説をあらためて検証し直す研究も出ている。賛成する研究と、確かめ直す研究の両方が並んでいる状態です。
400年以上たっても、まだ決まっていない。これが今の本能寺の変です。
信長の厳しさは、嫌っていたのか、期待していたのか
説が分かれるということは、信長と光秀の関係そのものの読み方も分かれるということです。
信長が光秀に厳しく当たったという話は、昔からいろいろな形で語られてきました。ただ、その厳しさをどう受け取るかで、話がまるごと変わります。
| 信長の厳しさを | そう読むと、本能寺の変は | この曲は |
| 嫌っていたと読む | 耐えかねた側の反撃 | 恨みを晴らした側の歌になる |
| 期待していたと読む | いちばん近い相手に伝わらなかった悲劇 | 気づいてやれなかった側の歌になる |
同じ曲を聴いているのに、涙の出る場所が入れ替わります。前者なら光秀の側で泣きますし、後者なら信長の側でも泣けてしまう。
どちらが正しいのかは、
公表されている一次史料からは決められません。だからこそ、聴く人の数だけ読み方があるのだと思います。
期待だったとしたら、この歌は誰の後悔になるのか
私は、後者の読み方をしたときに、この曲がいちばん重くなると思っています。
もし信長の厳しさが、見込んだ相手にだけ向けられたものだったとしたら。
信長は、自分の伝え方が相手を追い詰めていたことに、最後まで気づかなかったことになります。伝えているつもりだった。育てているつもりだった。でも受け取る側には、まったく別のものとして届いていた。
そして
気づいたときには、討たれる側になっている。
この読み方をすると、feat.という書き方の意味も変わってきます。恨みの歌なら、二人が並ぶ必要はありません。
並んでいるということは、どちらも言えなかった側だということなのだと思います。
同じチャンネルは、千利休と釈迦を並べた曲も出しています。
歴史上の人物を2人ひと組にして、向き合わせる作りが、このチャンネルの型のようです。
史実にだけ残っていないのは「二人が向き合って話した記録」
最後に、いちばん静かなところを書きます。
本能寺の変について、日付も、場所も、討った人も、そのとき誰がどこにいたかも、資料に残っています。信長の側については太田牛一が書いた『信長公記』があり、家康の動きについては松平家忠の『家忠日記』などが伝えています。
でも、信長と光秀が向き合って言葉を交わした場面の記録は、残っていません。
言い分を聞く時間も、答える時間もないまま、二人の関係は終わっています。
謝ることも、問いただすことも、なかったわけです。
この曲がやっているのは、そこだと思います。
現実には一度も成立しなかった会話を、歌の形で成立させてしまっている。だから聴いていると、なかったはずのものを見せられている感じがして、途中で苦しくなるのだと思います。
ここから個人的な話をさせてください
調べながら、ずっと自分のことを考えていました。
うちには子どもが3人いるのですが、いちばん上の子に対して、私はときどき言い方がきつくなります。できるはずだと思っているから言うわけです。
期待しているから厳しくなる。自分ではそのつもりでいます。
でも、受け取る側からしたらどうなんやろう、と思いました。
期待から出た言葉なのか、ただ怒られているだけなのか、言われた側には区別がつきません。こちらが心の中で「見込んでいるからだ」と思っていても、それは言わなければ伝わらない。言わないまま厳しくし続けたら、相手に残るのは厳しさのほうだけです。
信長と光秀の話を、そのまま親子に重ねるのは乱暴やと思います。時代も立場も違いますし、諸説あるものを自分の都合で読んでいるだけかもしれません。
それでも、伝えたつもりのことが伝わっていない怖さは、規模が違うだけで同じ形をしている気がしました。
この曲を聴いて泣く人が多いのは、たぶん歴史の話として泣いているのではないんやと思います。
言えなかった側と、気づけなかった側。どちらかに、自分の身に覚えがある。だから刺さる。AIが作ったから泣けないとか、人間が作ったから泣けるとか、そういう話ではないのかもしれません。
まとめ:涙の本能寺の歌詞がなぜ泣けるのかを整理すると
・この曲は
「織田信長 feat. 明智光秀」という形で、討った側と討たれた側が並んで歌う作りになっている
・投稿はリングマスター Ringmaster。公開は2026年7月6日で、再生は139万回を超えている
・本能寺の変が起きたのは天正10年(1582年)6月2日、京都の本能寺
・
光秀が謀反を起こした理由は、今も決着していない。四国の政策転換を原因とする説があり、その説を検証し直す研究も同時に出ている
・信長の厳しさを
「嫌っていた」と読むか「期待していた」と読むかで、この曲は恨みの歌にも、後悔の歌にも変わる
・史実に残っていないのは
二人が向き合って話した記録。この曲は、その成立しなかった会話を歌にしている
歌手が誰なのか、誰が作っているのかについては
別の記事にまとめています。新しいことが分かったら、この記事にも追記していきますね。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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